蝉の抜け殻があった ~儚い命でも~ [雑記]
大昔の話だが・・・
その頃住んで来た借家の近くに、庭がとっても広い邸宅があった。
まさに家の中に森がある。
そんな大きな大きな家だった。
今思えば・・・
他人の家の庭に、勝手に入ったら不法侵入でお縄につくところなのだが、まだ小学生低学年(1年生)だった私は、夏になるとその家の庭に入って、蝉をたくさん捕っては悦に入っていた。
そうこうして、成虫を網で捕るのにもだんだん飽きが来て、今度は夕方まで待って、木の根元の穴にいる蝉の幼虫を捕ることに夢中になっていった。
捕り方は・・・
まず蝉の幼虫が掘った穴に、小さな出来るだけ細い小枝を差し込む。
穴の中に幼虫がいれば、この小枝がモゾモゾと動くのだ。
居るとわかればその穴を、幼虫を傷つけないように、注意をしながら周囲へ広げながら掘り出すだけだ。
ある日そうして捕獲した、アブラゼミの幼虫を我家に持ち帰った。
そして父母に「これって蝉になるよね?」って聞いた。
そうしたら、父から諭すように叱られた。
「蝉はね、6年間も穴の中でずっと辛抱していて、やっと明るい外に出られたと思ったら、1週間で死んでしまうんだよ」
そう聞いて、私はいけないことをしてしまったんだと、子供心に反省をしたことを覚えている。
そして、どうしようかと考えたが、森に返してももう穴は私が壊してしまったし、すでに外は暗くなってしまっていたしで、結局父に相談して、この蝉の幼虫は我家で羽化してもらって、そして大空に返してあげようということになった。
私はカーテンに幼虫を止まらせて、30分置きくらいに見に行っては変化を確認した。
だいぶ時間も経った頃、いよいよ幼虫の背中が少しずつ割れてきた。
またしばらく待つと、蝉が殻から出て、白い綺麗な翅の蝉がカーテンに止まっていた。
アブラゼミは茶色い蝉なのに、翅が真っ白なのに驚いた。
透き通った綺麗な姿に感動したw
残念ながら、その後の色の変化は寝てしまって見られなかったが、我家で無事に羽化してくれたことは、たいへんに嬉しかった。
朝になった。
すぐに蝉の止まっていた、カーテンのところに行った。
でも・・・
そこには抜け殻だけがあって、羽化した蝉はもうどこかに飛んで行ってしまっていなかった。
少し寂しいような気もしたが、きっと大空に元気に羽ばたいて行ったのだと思うと、嬉しい気持ちになった。
そして自分がしてしまった過ちで、蝉の短い命を消してしまわなかったことに安堵した。
この出来事の前には、捕った蝉の翅を1/3程度千切って、グライダーだなんて残酷な遊びをしていた。
蝉の地上での命が短いことなど考えたことも無かった。
蝉ばかりではなく、他の生き物に対しても同じように、かなり多くの生き物を遊びで殺してしまっていた。
ザリガニ釣りなどは、その最たるものだったかも知れない。
釣ったザリガニの尾を千切って、殻を剥いて剥き身にする。
そしてそれを次の釣りの餌にするのだ。
蛙がいれば手で掴んでは、地面に叩きつけ、そして皮を剥ぐ。
その足に糸を結んでザリガニを釣ると、すぐにザリガニがかかるのだ。
誰に教わったのかも忘れたが、たぶん一緒に遊んでいた友達だったように思う。
魚を釣ればつみれだと言っては、石ですり潰したり。
海でフグが釣れれば怒らせてふくらませ、足でまるで風船を割るように爆ぜかしたり。
祭りで爆竹を手にすれば、捕まえた獲物にしかけて爆破したり。
残酷な遊びを、残酷だと認識していなかったのだ。
殺される者たちの痛みなど、これっぽっちも考えたことが無かったのだ。
もちろんだんだんと成長するにつけ、命の尊さを学んで、大人になってからは、害をなすもの以外は殺すことは一切しなくなった。
というか出来なくなったのだ。
最近ではゴキブリを見かけても、何もしないでほかっておくし、クワガタを見つけても取ることはしない。
毛虫が道をもそもそと移動していると、車に轢かれるんじゃないかと心配で、木に戻してやったりしている。
どんな生き物も、精一杯生きていると思えば、むやみにその命を奪うことは、いけないことなんだと思うようになったのだ。
今は亡き父は、どちらかというと寡黙な人で、あまり余計なことを言わない人だった。
私には怖い父だったが、一度も大声を上げて怒られたことは無い。
いつも私にわかるように諭すように叱ってくれたのだ。
子供の頃、こうして受けた親の教育は私の根幹となって、今も心の底にあり、私の判断基準となっている。
私も子供たちに命の尊さについては、事あるごとに話している。
「逆に立って考えてみなさい」と教えている。
幸い我子たちは優しい心を持って、成長してくれている。
金もない、社会的地位もない、何も誇れない自分が、子供たちに渡せるものといったら、こうした親から受け継いだ教えだけなのかもしれない。
もっともっと頑張って、子供たちに「何かを残して消えて逝きたい」という望みはまだ捨ててはいないが・・・
40にして惑わずのはずが、50にして未だ惑う自分に、寂しさを覚える吾身を嘆く現状ではいても・・・
さあ!
明日もがんばるさ~
今日の悩める命に感謝(拝)
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